二月(きさらぎ)表白文

釈迦の入滅を偲び奉る涅槃会にもあたる二月といふ、寒き折にも春のきざしを覚ゆるこの佳き日に、仏壇の御前に、先祖代々、また先亡の追善法要を営まんとす。

そもそも「涅槃(ねはん)」とは、煩悩の炎をことごとく滅し尽くし、もはや生死の輪廻に囚はるることなく、究極の安らぎに至る境地を指すものなり。その意は、古の言の葉にては「吹き消す」ことを意味し、すなはち煩悩の炎を吹き消し、迷ひと苦しみの尽きることなき世を離れ、永遠の寂静(じゃくじょう)に至ることを表せり。これこそが仏道の究極にして、あまねく衆生が目指すべき悟りの境地なればこそ、釈迦の入滅を「涅槃に入る」と申し奉るなり。寒風身に染むれども、陽の光にはほのかに春の息吹ぞ感ぜらるる。木々は芽吹きを待ち、冷たき風は容赦なく吹くなれども、然れど、釈迦の入滅を思ひ、命の尊さを改めて考ふるに、先祖、先亡の面影偲びつつ、我等もまた、前途を仰ぎて生きるとす。

されば、涅槃に至るとは、ただ命を終えることにあらず。この世に生まれし限り、我ら衆生は尽きることなき苦しみを背負ひ、欲望に駆られ、迷ひの中を彷徨ふなり。しかれども、釈迦はその道を示し給へり。すなはち、煩悩を離れ、執着を捨て、静かなる悟りへと至ることこそが真(まこと)の涅槃なり。仏陀は最後の言葉にて、「諸行無常(しょぎょうむじょう」と説き、「滅をもて寂静となす」と示し給へり。
季節の移ろひは、人生の無常を教ふると共に、生命の力強き巡りを感ぜしむ。冬枯れの景色にありながら、春の兆しを覚ゆる陽光の如く、我らが命もまた、先祖より受け継ぎたる尊きものなり。これ、未来へと繋がる光と覚ゆるなり。
阿弥陀如来の教へは、限りなき慈悲と救済の道を示し給へり。いかなる苦しみ、悲しみの中にあらむとも、阿弥陀如来の慈悲の光は、我等を包みて安らぎと希望を賜はん。されば、先祖もまた、この教へに導かれ、苦難を超え、慈悲の心をもて人に接し給ひならん。

厳しき寒さの中、人の温かき思ひやりこそ、何よりもの尊きものなりけるを覚えるなり。先祖は幾多の困難を凌ぎ、常に人々に優しきまなざしを向けて、我等がため、道を切り拓き給へり。その温もり、さながら凍ゆる心に差し込む一筋の光ならん。我等、この恩を忘れず、先祖の志を受け継ぎ、日々努めむと存ずるなり。

また、他者に優しからむがごとく、自らにも優しくあらむと願ふ。慈悲は他者へと共に己にもむけられるものなり。然れど、釈迦は、万の生きとし生けるものの幸福を説き給へり。されば、我等も自らを大切にし、心穏やかに過ごすことによりて、人にもまた優しく接するを得ん。

自らを慈しむは、決して野放図には非ず。心身を健やかに保ち、善く生きるための智慧なり。疲れし時は休み、心にゆとりを持つことにより、我らはより多くの愛と思ひやりを、他者に施すこと叶ふべし。

かくして、涅槃の教へを深く胸に刻み、先祖、先亡の遺志を受け継ぎ、阿弥陀如来の慈悲の光のもと、我らもまた迷ひの世を超え、真の安らぎへと歩まんことを願ひ奉るなり。

今、此処にて、先祖代々、また先亡の安らかなる往生を願ひ奉るとともに、み仏、諸菩薩の慈悲と智慧の光、我等すべての者に等しく届かむことを、切に願ひ申し上ぐるなり。

南無阿弥陀仏。

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愛知県知多郡東浦町にある「浄土宗 乗林院。「心の拠り所」として多くの方に親しんでいただけるお寺にしたいと考えています。

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