令和七年三月弥生表白
仏説無量寿経の深義を仰ぎ奉り、無辺なる阿弥陀如来の大悲に帰命し奉る。春分の候(こう)を迎え、天地和(やわ)らぎ、風温(あたた)かに、草木(そうもく)芽吹くこの佳(よ)き日に、仏壇を御前に当家の法要を修し、み仏(ほとけ)の御前(みまえ)に額(ぬかず)き、謹んで表白を申し上(あ)ぐ。
春の息吹は、万物に新たなる命を与え、久しく寒さに耐えし草木(そうもく)も今を得たりと芽を綻(ほころ)ばす。冬の闇を抜け、光に満ちるこの時、われらもまた、仏の御光(みひかり)に照らされ、心に新たなる芽吹きを得んと願うものなり。
然るに、娑婆世界に生を受くる者、皆ことごとく迷いの闇に沈み、日々に苦悩を積み重ねるものなり。思うように歩めず、己の無力を嘆き、時に立ち上がる力さえ失うこともあリぬ。
世の人は「強くあれ」と、のみ説くなれど、真に強き者とは、ただ耐え忍ぶにあらず。時に己の弱きを認め、悲しみを吐露し、助けを求めることもまた、強さの証ならずや。
如来はそのようなわれらを決して見捨て給わず、弱き声にも等しく耳を傾け、慈悲の光を注ぎ給う。
南無阿弥陀仏と称えるその瞬間、われらは己の小さきを知り、如来の誓願に生かされていることを知るなり。如来の御手(みて)に抱かれ、弱音を吐ける安らぎを得、そこに真の強さを見いだすものなり。
そもそも彼岸とは、迷いの此岸を離れ、覚りの彼岸へと至らんとする大いなる道標なり。仏は、われら凡夫(ぼんぶ)のために、六波羅蜜(ろっぱらみつ)の徳を示し給えり。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧なり。南無阿弥陀仏の名号にはその全てが含まれり。
彼岸の時を迎えし今、われらもまた、六波羅蜜の行を深く肝に銘じ、仏道を歩むことを誓い奉る。
願わくは、この世の迷いに苦しむすべての人々が、阿弥陀如来の光明に照らされ、心安らかなる日々を歩むことができますよう。浄土に生まれ往きたる先祖、先亡の御霊(みたま)もまた、法(のり)の喜びに満ちて安らかならんことを。
願わくは、十方の衆生ことごとく、み仏の御光(みひかり)に照らされ、現世安穏、後生善処(ごしょうぜんしょ)の道を歩むことを。かの極楽浄土にて、倶会一処、再び逢い奉るその日まで、われら南無阿弥陀佛の念仏の信を深め、如来の導きに請い従い奉らんことを。
山川険しき世なれども 仏の教えひとすじに
彼岸に至るしあわせよ あああめつちに陽はうらら
久遠の救い ここにあり
南無阿弥陀仏
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