凍れる冬の厳しさもやや緩み、陽光は大地を潤し、万象ことごとく甦りぬる春の気配、枝々には新たな芽吹きの兆しあり。宗祖法然上人の御忌を仰ぎ奉るとともに、御忌彼岸の法縁を謝し、仏祖の大慈悲に報い奉ることの幸いを、深く感ずるものなり。
顧みれば、われらが今かくのごとく念仏の法に遇い、南無阿弥陀仏と称うることの得るは、ひとえに阿弥陀如来の御誓願の導きにして、また宗祖法然上人の命をかけてお示し下されし専修念仏の御法によるものなり。
法然上人、幼き折に父君を亡くされ、世の無常を痛切に悟り、わずか九歳にして比叡の山に登り、深く仏法を学び、修行に励みたまえり。しかしながら、いかに経典を究め、戒律を厳修すれども、煩悩具足の凡夫いかでか真実の道を得んと、ひたすら一切経を渉猟し、二十余年の久しきにわたり、経蔵に籠りて仏道の真髄を尋ね給えり。
しかるに、ついに選び取りたまいしは、善導大師の観経疏に説かれる阿弥陀仏の誓願に基づく「南無阿弥陀仏」の念仏なり。
「ただ一向に念仏すべし」
この御言葉のうちに、宗祖の御教えのすべてこもれるなり。いかなる身の者も、いかなる業を負えるとも、ただ南無阿弥陀仏と称うれば、必ず阿弥陀仏の御救済にあずかるなり。
法然上人、専修念仏の御教えを打ち立てられてより、すでに八百五十余年の久しき時を経たり。その間、幾多の艱難辛苦を乗り越え、上人の御教えは脈々と伝えられ、今に至るも、なお絶ゆることなし。われらが今、念仏を称うることの得るは、まさしく宗祖の遺徳と、歴代の祖師方の御尽力の賜(たまもの)なることを、深く感謝申し奉る。
ここにまた、春彼岸を迎え、彼の岸を偲ぶ時至れり。彼岸の中日には、日輪まさしく真西に沈むなり。
その光を仰ぐとき、遥か西方極楽浄土を想い、亡き人々の、すでにかの浄域に生まれ給えるを偲ぶ。かつてともに語らい、歩みし者も、今はかの浄土にあり。今われらここにありて、念仏を称えんこと、かの方々に届けんとの誓いを新たにせん。さらに申さば、今年は戦後八十年の節目なり。往時、戦乱の業火のうちに斃れし無数の霊魂、今もなお浮かばれざる霊あり。あまたの尊き命、無念のうちに失われしことを偲び、深く哀悼の誠を捧ぐ。
また、戦災のみならず、地震、津波、洪水、火災、あらゆる災厄により亡くなられし多くの御霊にも、改めて回向の誠を捧げん。願わくは、阿弥陀如来の慈悲もて、かの御霊を安らかに浄土へと迎え給え。
春は巡りて、万象は生気を得る。人の心もまた、この春の陽光に照らされ、新たな息吹を得るべし。
世の無常、定めなきは人のならいなれども、ただ南無阿弥陀仏と称え、念仏の道を歩むとき、心静かに、安らぎのうちに在るを得ん。ここに誓いて申し奉る。われら、いかなる時も念仏を忘れず、南無阿弥陀仏の響きを絶やさず、法然上人の御教えを守り、世々に伝えん。
願わくは、この御忌彼岸会の功徳をもって、亡き御霊安らかに、現世の人々も心豊かに暮らし、弥陀の慈光、限りなく広がらんことを。
維時、令和七年三月十五日 温誉隆太 敬って申す。
南無阿弥陀仏
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