願わくは先祖代々の御霊、並びに先亡諸々霊等、阿弥陀如来の光明に照らされて安らかに在(ま)し給わんことを、謹みて願い奉る。
この世は無常の世界にして、一切の有為の法は過ぎ去るがごとし。されど極楽浄土は常住不変なれば、この世を去りし後には、かの世界にて必ず阿弥陀如来の御前に参り、蓮台に坐し、菩提を証せんと願い奉る。かの国に往生せんと思わば、ただ仏の名を称え、その功徳によりて願いを満たさんと教え給いぬ。極楽浄土は十万億の仏土を過ぎたる遥かなる西方にあり。阿弥陀経の説くところによれば、その国土は常に春にして、四季の移り変わりなく、花は絶えず咲き誇る。風が宝樹を揺らせば妙なる音色を奏で、鳥は美しき声にて法を説くなり。
極楽浄土はこの世界と別離せる世界にあらず、ただ遥かなる方位(ほうい)を隔つのみ。西方はるかに存在し、法然上人の御言葉の如く「遠からず近からず」の妙境(みょうきょう)にて、心の及ぶところに実在するなり。現世には見えずとも、念仏一つにて必ず到達する世界にして、衆生皆、西方に向かいて切に念仏すれば、その国に生まれることなり。願わくは、法蔵菩薩の誓いと行いに倣い、困難に直面しても決して諦めることなく、信心を堅固に保ち、念仏の教えを実践し、極楽浄土への道を歩み続けることができるよう、御加護を願い申し上げ奉る。
この春の訪れとともに新年度を迎え、私どもは新たなる心持ちにて人生の旅路を歩み始めたてまつる。学び舎にては入学や進級の慶びに満ち、世間にては新たなる職場にて希望に胸を膨らませ給う方々も多く存じ奉る。かかる新たなる出発の刻(とき)に、仏の慈悲の光明(こうみょう)に照らされながら歩み行くことができます故、深く感謝申し上げ奉る。
思えば法蔵菩薩は、世自在王仏の御前にて深く衆生(しゅじょう)の苦しみを憐れみ給い、五劫の思惟の末、四十八願を立て給いき。この「劫」とは、仏教における時間の単位にて、想像を絶する長さを表し奉る。一つの劫とは、一辺が四十里の巨大なる石を、三年に一度天人が天衣(てんね)にて撫で給い、その石が完全に磨滅するまでの時間とも言われる。そのような気の遠(とお)くなるような五つの劫という長き時を経て思惟し給い、あらゆる衆生が必ず救われ給うという誓願のもと、兆載永劫(ちょうさいえいごう)の修行を積み給い、ついに阿弥陀如来と成り給いき。特に第十八願においては「たとえ十声でも念仏を称える者を必ず救わん」と誓われ給い、私どもの如き凡夫(ぼんぶ)のためにこの上なき救いの道を開き給いき。
春爛漫の折となり、桜も満開の美しき時を迎え、万物が息吹き始める慶びの季(とき)となりぬ。新たなる年度を迎え、日々の生活に感謝申し上げ奉る。また、この月には釈尊の御誕生をお祝い申し上げる花祭りの慶びも添えて、如来の慈悲を偲ぶ尊き時節となる。仏の慈悲の光明が大地を照らし、すべての生きとし生けるものに新たなる命の恵みをもたらし給う。
法然上人は「ただ一向(いっこう)に念仏すべし」と説かれ、専修念仏の教えを広め給いき。上人は、阿弥陀如来の本願に基づき、すべての人々が平等に救われる道を示され給いき。この教えに従い、日々「南無阿弥陀仏」と称え、煩悩具足の凡夫であっても必ず救われ給うという深き安心を奉る。
南無阿弥陀仏
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