皐月は子どもの健やかなる成長を祝うこどもの日と、母への感謝を捧げる母の日を迎える月なり。
親にとりては、子は幾つになりても子なり。白髪生え老いたる親も、我が子を気にかけ心配し、慈しみて止まざるごとし。母の愛は、観世音菩薩の慈悲の心に通じるものにて候う。観世音菩薩は、その名の通り、世の中の音、すなわち衆生の苦しみの声を聞き、三十三の姿に変じて衆生を救済したまう。衆生の求めに応じて姿を変え救いの手を差し伸べる観世音菩薩の慈悲は、子の状況に応じていつでも手を差し伸べる母の愛に通じまいらする。
母なる存在の無償の愛と、観世音菩薩の無限の慈悲は、共にわれらを守り育む大きなる力なり。母が子を思う心は、観世音菩薩が衆生を救わんとする大悲心に相通じるものなり。観世音菩薩の慈悲は、あらゆる衆生の苦しみに寄り添い、その姿を三十三身に変化させて救いの手を差し伸べたまう。それはまさに、子どもの成長に合わせて様々なる姿で導き、支え、時に厳しく、時に優しく見守る母の愛に似たるものにて候う。
阿弥陀如来は、すべての衆生を我が子のごとく慈しむ。これは親が子を決して見捨てざるごとく、阿弥陀如来がわれら衆生を見守り続けたまうことの証にて候う。こどもの日に我らが子どもの成長と幸せを願うごとく、阿弥陀如来と観世音菩薩は常に我らの成長と救済を願い給う。
母の懐に抱かれたる幼子のごとく、われらも念仏の中にて安らぎを覚え、阿弥陀如来の本願力に抱かれまいらせん。いかに暑き季節となりても、いかに寒き季節となりても、いかに苦しきことありても、いかに悲しきことありても、念仏こそわれらの安らぎの場所なり。
いかなる時も、いかなる場所にても、いかなる境遇にありても、われら衆生は「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱え続け、念仏とともに歩まん決意を新たにいたしまいらせり。朝夕に称える念仏、寝覚めに称える念仏、すべての時に、すべての場所にて「南無阿弥陀仏」の御名を称え続けん。
法然上人は「専修念仏」を勧められ、一心に念仏を称えることこそが、往生の要諦なりと教えたまいき。われら凡夫は、今生の目的を念仏の一道に定め、ひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続けん。
南無阿弥陀仏
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